水俣の歴史年表

この年表は、水俣病を中心に水俣地域のあゆみを見るために作成しました。あつかった範囲は明治から現在までで、それぞれの項目には出典を明記しています。

典拠文献の略称一覧

あゆみ年表
創ったそして闘いぬいた 新日本窒素労働組合59年のあゆみ 新日本窒素労働 組合写真集編集委員会 2006年1月
区画便覧
白川県下区画便覧(熊本県史料集成 3 熊本女子大学郷土文化研究所 1985年4月)
熊 日
熊本日日新聞 熊本日日新聞社
市 史
新水俣市史 水俣市 1991年10月
小 史
水俣病小史 高峰武 水俣病ブックレット6 熊本日日新聞社 2008年3月
大 観
日本窒素肥料事業大観 日本窒素肥料株式会社 1937年7月
水俣病年表
水俣病年表(水俣病 20年の研究と今日の課題 有馬澄雄 青林社 1979年1月)
1874明治 7 8.-- 大区小区制の編成替で、後の水俣市域は第9小区、第10小区、第11小区に属することとなる。白川県下区画便覧 市史上498
1895明治28 --.-- 水俣村、戸数2,543戸、商業379、工業222、飲食店27、漁業84。市史上648
1908明治41 8.20 前田永喜らの誘致運動によって日本窒素肥料株式会社(日窒)、水俣村に石灰窒素工場(カーバイト製造)を建設する。市史上649 大観433
1909明治42 11.-- 水俣村の中心部に電灯がつく。市史上649
1910明治43 --.-- 塩の専売制施行後、生産性の低い塩田の廃止を国がすすめたため、水俣の製塩業が廃止となる。市史上649
1912大正 1 12.1 町制をしき、水俣町となる。市史上650
1914大正 3 12.-- 日窒、八代郡鏡町に工場を新設。これへの電力供給のため、内大臣川発電所を建設(1916年12月)。同工場は1926年日本人肥に買収される。大観447
1915大正 4 4.-- 日窒、梅戸港を擁する新工場を建設。同時に梅戸トンネル工事に着手。工場への電力供給のため、川内川発電所を建設(1917年5月)。市史上651,下1229 大観452
1916大正 5 4.-- 日窒、梅戸港湾設備に着手、翌年竣工。9月14日資本金を1千万円に増資。大観452
1917大正 6 4.-- 水俣実科女学校が新設。葛渡・袋・湯出の各小学校に高等科併設。7月電話開通。市史上650
1922大正11 5.-- 水俣商工会が設立される。商業戸数1,030戸の内、会員数250人。市史下1233
1922大正11 --.-- 水俣町人口4,861戸、21,671人。市史上650
1923大正12 5.18 6月18日まで、3回にわたる大洪水で大被害。湯の鶴では川上の人家7軒が流され、浜の永代橋以外の橋は流失。市史上651
1926昭和 1 12.25 日窒水俣工場にガザーレス式の新工場建設、この日、最初のアンモニアが製造される。この年の日窒水俣工場の従業員数1,665人。市史上651,下1235 大観464
1926昭和 1 7.21 国鉄肥薩海岸線(水俣米ノ津間)が開通。市史上651
1927昭和 2 5.2 日窒、朝鮮窒素肥料株式会社を資本金1千万円で設立。本社朝鮮咸鏡南道咸州郡興南邑。6月15日、興南工場の建設に着手、敷地4千万坪。大観204,474
1931昭和 6 1.15 天皇、日窒水俣工場を見学。大観530
1932昭和 7 5.7 日窒水俣工場、第一期アセトアルデヒド・合成酢酸設備の稼働を開始、触媒として硫酸水銀が使用され、水銀排出が始まる。市史下858
1932昭和 7 12.-- 水俣川改良工事着工(1934年4月完成)。総工費53万8336円、X状をY字状に改修。同時に百間港の築港に着手(1935年完成)。総工費50万円。市史上653
1933昭和 8 --.-- この年、湯の児道路新設、町営屠畜場(1万4400円)、水道工事(33万5,000円)、袋茂道道路改修工事。市史上655
1945昭和20 3.29 日窒工場内に米軍機空襲。これ以降、8月まで空襲は続き、工場は全壊、民家184戸が被災、数十名の死傷者をだす。市史上656
1945昭和20 8.15 敗戦により日窒は朝鮮をはじめとする海外資産を喪失、国内の各事業場も集中排除法により分離され、水俣工場のみを残すことになった。市史下512
1946昭和21 1.26 日本窒素水俣工場労働組合を結成。組合長野田正雄、3,214名。水俣・東京・大阪の各組合で連合会結成。あゆみ年表 熊日2.27
1946昭和21 2.-- 日窒水俣工場、アセトアルデヒド・合成酢酸工場製造を開始。1949年10月塩化ビニール生産開始。市史下858
1949昭和24 4.1 市制施行により水俣市となり葦北郡を離れる。市史上658
1950昭和25 1.-- 日本窒素肥料株式会社、企業再建整備法により解散、水俣工場を中心とした稼働資産を引き継ぎ、新日本窒素肥料株式会社を設立(資本金4億円)。あゆみ年表 市史下512
1951昭和26 2.20 新日窒労組機関紙「さいれん」発刊。1958年まで月刊、1959年10月5日より「日刊さいれんニュース」、1960年7月25日より「日刊さいれん」、1962年7月2日から「さいれん」。あゆみ年表
1951昭和26 7.-- 水俣・東京・大阪3組合で協議会結成、共通した要求は協議会として会社と交渉することになる。8月水俣労組、合化労連に加盟、組合員4,400名。あゆみ年表
1953昭和28 10.1 新日窒労組、身分制撤廃(社員・工員という従業員呼称の一元化、日給制を月給制に、定年55歳一本化)を求めて43時間スト。6日67時間スト。あゆみ年表
1953昭和28 10.23 新日窒労組、初めの無期限ストに入る。27日後に組合要求の大半が認められ解決。これに伴う市の経済的打撃は深刻。市史上662 あゆみ年表
1953昭和28 12.15 出月地区の5歳11月の子が原因不明の病気となる。後に水俣病と判明する。水俣病年表
1954昭和29 8.1 茂道地区で猫が猫てんかんで全滅したため、ネズミが増えたとの記事が『熊本日日新聞』に載せられる。熊日54.8.1
1955昭和30 6.30 青年婦人部機関紙「ちしお」創刊号発行。あゆみ年表
1955昭和30 11.3 水俣市、日窒工場誘致に功のあった前田永喜(外平、79歳)を表彰。市史上666
1956昭和31 4.21 月浦の五歳の女児が脳症状を訴えて新日窒水俣工場附属病院に入院。この後同種の症状を訴える患者3名が入院。市史上666,下823
1956昭和31 5.1 新日窒附属病院の細川一より「原因不明の脳症状を呈する患者四人が入院した」と水俣保健所に報告、水俣病の公式発見となった。この年の患者数52名。市史上666,下823
1956昭和31 5.28 「水俣市奇病対策委員会」を市・保健所・市医師会・市立病院・新日窒附属病院により設置。患者を伝染病舎に収容、患者多発地区に消毒を実施する。市史上666,下825
1956昭和31 7.27 新日窒附属病院の入院患者8名を「日本脳炎疑」として市隔離病舎に収容。8月30日同患者を熊大医学部附属病院藤崎台分院に収容。市史下859
1956昭和31 9.1 葦北郡久木野村と合併し、人口50,461人、10,168世帯となる。市史下24
1956昭和31 11.3 熊大研究班、中間報告会で「伝染性の疾患ではなく、ある種の重金属による中毒ではないかと」報告する。市史下826