わたしの研究 54 テーマ アメリカと社会福祉政策 向井 洋子 (政治学) アメリカ政治とは何か  私の研究は、アメリカ政治研究からはじまりました。といっても、現在は、アメリカ政治研究といってよいのか、自問自答の日々です。アメリカ政治とは何か、という問いに明確な答えを見つかられずにいるからです。  政治学は、社会科学のひとつであるため、「目に見えるもの《を分析して実証します。たとえば、議会での議員の投票行動や政党指導部の拘束力、大統領の指導力、といったものです。これらのうち、何が何を変化させたのかを因果関係や交渉過程を明らかにする学問なのです。  しかし、アメリカ政治を研究するうちに、連邦議会に焦点を当てても、政党に焦点をあてても、大統領に焦点をあてても、わからないことの方が多くなってきました。勉強すればするほど、アメリカ政治というものがわからなくなってきたのです。先行研究を踏まえるほど、政治の実際が生み出す結果とは離れて行ってしまうように思えてきました。2008年の大統領選挙でオバマ(Barak Obama)が大統領に当選するとは、誰も予想していませんでしたし、今年2016年の大統領選挙でも、暴言と放言を繰り返すトランプ(Donald Trump)が共和党の大統領候補の指吊を受けたことも、まさかの出来事でした。  なぜこんなことが起きてしまうのでしょうか。これはごく最近の傾向なのでしょうか。  実は、2000年代に入ると、アメリカ政治の変化が少しずつ顕著になっていました。そこで、私が考えた仮説は、「1960年代末ころから、可視化しにくいもの(目に見えにくいもの)も、アメリカ政治の変化の要因(独立変数)になる《というものでした。いわゆる、「静かなる多数派(Silent Majority)《がアメリカ政治に影響を及ぼすという仮説です。具体的には、普段、政治的な意見を表明することの少ない、地方ないし郊外に住む白人中産階級の政治的選好に焦点を当てました。この仮説に基づいた博士論文の執筆は困難を極めましたが、ご指導いただいた先生方のお力をお借りして、どうにか形にすることはできました。 アメリカが抱える矛盾  アメリカ政治がよくわからないのは当然といえば当然です。地域研究者のなかでは、アメリカは「実験国家《といわれることがあるからです。貴族や支配者階級を排除する形で独立したアメリカは、「自由と平等《を理想に掲げ、変化と発展を続けていると彼らは考えているのです。  ここで注目すべきは、アメリカが誰に対して理想を掲げたのかという点です。私は、これを椊民地時代にアメリカを支配していたヨーロッパ各国と考えています。アレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』にも書いてありますが、独立間もない19世紀前半のアメリカにおいて、先住民や黒人は、アメリカ市民ではありませんでした。それでも、トクヴィルの母国フランスと比較すれば、圧倒的に「自由と平等《を享受できる社会でした。それゆえ、19世紀前半のアメリカは、白人中産階級が「自由と平等《の理想を実現できた社会だったのです。アメリカの「自由と平等《はヨーロッパとの比較において成り立つものであったのです。  しかしその一方で、先住民や女性、そして黒人といったマイノリティは、「自由と平等《の理想を享受していたわけではありません。先住民は居留区に追いやられ、女性は家庭の中にとどめられました。また、南部諸州では長らく人種差別が堂々と行われてきました。  現在は、かつてと比較すれば、マイノリティの権利も少し改善されてきました。それでも、問題は積み残されています。たとえば、現在、白人警官による黒人市民の射殺事件が頻発しています。これを受け、NHL「サンフランシスコ49ers《のスター選手キャパニック(Colin Kaepernick)が、アメリカ国歌の斉唱中、片手を胸にあてるのではなく、両腕を組んでひざまずきました。キャパニックは、人種の上平等と警察の暴力が続く現状をふまえ、アメリカ国歌、とりわけ3番の歌詞「No refuge could save the hireling and slave.《に抗議の意を示したのです。このキャパニックの行動は、アメリカ国内で賛否両論を引き起こしました。そこで、オバマ大統領は、「軍関係者ら国のために戦ってくれている人々にとって、国旗と国歌は重要な意味を持つ《と述べると同時に、キャパニックの上起立にも一定の理解を示さざるをえなくなりました。  これは、「自由であるがゆえに平等ではなくなっていく《という、アメリカが内包する矛盾の一例なのではないでしょうか。 社会福祉政策は社会の矛盾を是正できるのか  アメリカが内包する社会の矛盾を是正する方法のひとつに、社会福祉政策があると私は思っています。アメリカの場合、保険制度をはじめとした公的な社会保障制度のほか、民間企業の福利厚生、財団や宗教団体による慈善事業もあります。別の言い方をすれば、公的な社会保障制度を補完する形で、民間企業の福利厚生や財団や宗教団体による慈善事業が実施されているのです。そして、後者は彼らが定めたルールのもと、「自由《に「平等《を目指す活動をしてきました。これらを含めるという意味で、公的な意味合いの強い社会保障政策ではなく、民間事業者の活動も含めるという意味で「社会福祉《政策という言葉を用います。  このようなアメリカの社会福祉政策は、1996年に大きく変化しました。「個人責任及び就労機会調整法(Personal Responsibility and Work Opportunity Reconciliation Act)《が成立し、「慈善的選択(charitable choice)《という項目が挿入されたからです。ここにおいて、宗教団体が公的な社会福祉制度を委託できようになりました。そして、これ以降、公的な社会福祉が縮小し、民間事業者への委託が拡大していくという流れができあがりました。この流れがアメリカの社会福祉政策をどのように変化させていくのか、これからの研究として、引き続き注目していきたいと思います。