社会保障研究の新たな分野 本研究所研究員 松本 勝明 (社会保障法) 1 各国における社会保障制度の発展  今日、社会保障制度は人々が健やかに安心して生活を送るうえで欠くことのできない基盤となっています。各国の社会保障制度は、それぞれの国の事情を反映した国内制度として定められ、独自の発展を遂げてきました。EU(欧州連合)を中心とした統合の動きが進んでいるヨーロッパにおいても、社会保障に関する政策の決定権限はあくまでもそれぞれの国にあり、各国の社会保障制度には大きな違いがあります。また、国をまたがる社会保障制度の導入や各国の社会保障制度を統一的な目的・基準に合わせようとする「ハーモナイゼーション《が行われるような状況にはありません。  しかしながら、それぞれの国の社会保障制度は、他の国とは全く無関係に導入され、改正されてきたというわけではありません。ある国の社会保障に関する制度や政策が他の国に影響を及ぼす事例はこれまでも数多く見受けられます。例えば、19世紀末のドイツにおけるビスマルク社会保険立法は、日本を含めた諸国における社会保険の導入に大きな影響を与えました。また、最近の例としては、日本とドイツの介護保険をあげることができます。ドイツの介護保険が日本の介護保険導入に影響を与えたことは良く知られています。それだけではなく、ドイツにおける近年の介護保険改革では日本に倣ってケアマネジメントや地域包括支援センターに相当する制度が導入されました。また、要介護認定や要介護度の見直しに当たっても、日本の制度が参考とされました。 2 外国の社会保障制度に関する研究  このような状況を反映して、社会保障研究においても、外国の社会保障制度に関する研究が重要な研究分野の一つとなっています。近年においては、その対象が、欧米諸国のみならず、アジア諸国などにも広がり、研究者間の交流も盛んに行われています。こうした研究の重要な目的の一つは、自国との比較の視点から他国の社会保障制度の現状やその改善のための政策について研究することにより、自国の制度のあり方を考えるうえで有益な情報を得ることにあります。  各国の社会保障制度はそれぞれの国の社会、経済、歴史、文化などの違いを反映したものとなっています。このため、他国で有効であった政策がそのままの形で自国に適用できるというわけではありません。しかし、他国の社会保障制度について比較の視点から検討することは、国際的にみた自国の制度の位置づけを明らかにし、自国の改革について検討する新たな発想や視点を提供することに役立ちます。自国の研究を行うだけでこのような発想や視点を得ることは決して容易ではないと思われます。  ときおり、「ドイツの介護保険と日本の介護保険はどちらが優れているのでしょうか《といった質問を受けることがあります。しかし、自国との比較の視点から他国の社会保障制度について研究する目的は、いずれの国の制度が優れているのかを示すことではありません。通常は、ある国の制度があらゆる点においてもう一方の国よりも優れているということはなく、それぞれに長所と短所が存在しています。その双方を把握することが、自国の制度のあり方を考えることに役立ちます。 3 社会保障制度の調整に関する研究  外国の社会保障制度にかかわる研究のなかには、先に述べた研究とは別の観点から行われるものがあります。その一つは、異なる国の間での社会保障制度の調整に関する研究です。社会保障制度の調整ついては、日本ではまだなじみが薄く、外国の社会保障制度の研究の場合のように多数の研究者により活発に研究が行われているという状況にはありません。  社会保障制度の調整が必要な理由は、各国の社会保障制度が基本的にその国に継続的に居住し就労などの活動を行う者を前提に構築されていることにあります。このため、国境を越えて移動する労働者やその家族にとって、社会保障制度は必ずしも各国間で整合的なものにはなっていません。それによって、次のような問題が生じることになります。  外国に行って就労する労働者は、母国と就労国の社会保険が二重に適用されるために、社会保険料を二重に支払わなければならなくなることがあります。それとは逆に、いずれの国の社会保険も適用されなくなる可能性もあります。また、社会保障の給付のなかには、それを受給ために一定の保険料紊付期間、居住期間などが必要とされるものがあります。例えば、年金を受給するために25年間の保険料紊付が必要な国の場合には、労働者がその国で20年間、他国で5年間就労し、それぞれの国で年金保険料を支払ったとしても、その国の年金を受給することはできません。同様の問題は、被保険者期間が給付の受給資格や受給期間に影響を与える失業保険などの場合にも当てはまります。さらに、給付を受けるためには国内に居住していることが要件となっているために、職業生活から引退し、母国に帰国した労働者が、それまで働いていた国の制度から給付を受けられなくなる可能性もあります。  国境を越えて移動する労働者やその家族は、社会保障に関してこのほかにも様々な問題に直面する場合があります。こうした問題を解決するためには、このような労働者等を対象として、二重適用などを防止するためにそれぞれの国の社会保障制度の適用関係を調整すること、それぞれの国での保険料紊付期間などを通算すること、他国に居住する者にも給付を行うことなど、社会保障制度に関して各国の間での調整を行うことが必要となります。  この調整は一つの国だけでできるものではありません。なぜならば、いずれの国も他国の社会保障制度の適用範囲などを定めることはできないからです。したがって、この調整を行うためには、関係国間の合意に基づき調整の内容及び調整のための事務協力について定めた国際的な取決め(二国間又は多国間の協定など)が必要となります。  ヨーロッパでは、社会保険制度が確立した20世紀のはじめにおいて既に国境を越える労働者の移動が社会保障に与える影響に関心が持たれ、それに対応した取組みが行われてきました。たとえば、1912年には、労働者の移動に対応して、当時のドイツ帝国とイタリア王国との間で年金に関する協定が締結されています。  また、EUにおいては、その前身である欧州経済共同体の発足間もない1959年から、加盟国間を移動する労働者を対象として社会保障制度の調整を行う制度が設けられています。その後、この制度は発展を遂げ、今日では、労働者に限らない全てのEU加盟国国民(EU市民)を対象に、疾病、老齢、失業、労災、家族などに関する社会保障の幅広い分野の給付について包括的な調整が行われています。このような動きに呼応して、学術的な研究の分野においても、この制度について規定するEU規則や、この規則の解釈・適用を巡る欧州連合司法裁判所の判例などについての研究が盛んに行われています。今日では、多くの研究者が研究に従事し、多数の研究書、研究論文が刊行されるなど、ヨーロッパでは社会保障制度の調整に関する研究が社会保障研究の重要な分野の一つとなっています。  近年、日本でも外国との間での社会保障協定の締結を進めようとする動きがあります。政府は、2000年2月に発行したドイツとの社会保障協定を皮切りに、諸外国との社会保障協定の交渉、締結を進めてきています。2016年10月現在、16か国との間で社会保障協定が発効済み、3か国との社会保障協定が署吊済みとなっているほか、6か国と交渉中又は予備協議中となっています。しかし、これらの協定の内容をみると、日本の企業により外国に派遣される労働者及び外国の企業から日本に派遣される労働者を念頭において、年金制度等の二重適用を防止することや年金保険料が掛け捨てになることを防止することに主眼が置かれています。EUで行われている調整と比較すると、これらの協定が国境を越える人の移動に伴い社会保障に関して生じる可能性のある問題を全面的に解決しうるものではないことがよく分かります。  国際的な経済環境の変化、経済連携の強化などに伴い、外国から日本に来て働く外国人、外国に行き外国で働く日本人は今後ますます増加すると予想されます。このような労働者及びその家族の生活にとって、社会保障を適切に受けることができるかどうかは重要な意味を持っています。そのため、このような労働者等が直面する可能性のある問題の解決を目的として、現在の社会保障協定にとどまらない包括的な対応策を講じる必要があると考えられます。  ヨーロッパでは、長年にわたり、様々な国との間で社会保障制度に関する調整が行われ、豊富な経験や知識が蓄積されてきました。その調整の基本的考え方や仕組みは、日本と東アジア諸国などの外国との間での調整制度を考える際の重要な基礎になりうるものです。しかし、具体的な制度のあり方については、相手国の社会保障制度の現状や相手国との間の労働者の移動の実態などに応じた検討を加える必要があります。こうした取組みを支えるものとして、日本においても社会保障制度の調整に関する研究を進展させる必要があると考えています。