わたしの研究 56 テーマ 「差別の歴史《を考える 本研究所研究員 矢野治世美 (前近代部落史) ◆研究の視点  部落史に関する史料集の編纂事業に関わったことがきっかけで、前近代の部落史を研究するようになりました。  これまで、紀伊国(現在の和歌山県域)を対象として被差別部落の歴史や被差別民衆史を検証し、その成果は『和歌山の差別と民衆―女性・部落史・ハンセン病問題』(阿吽社、2017年)として1冊にまとめることができました。現在は、江戸時代の高野山寺領に関係する史料の調査・翻刻作業と、その史料をもとに被差別民の実態について研究しています。 ◆高野山金剛峯寺と「日並記《  江戸時代は、寺社参詣や物見遊山など庶民の旅行がさかんな時代でした。空海(弘法大師)ゆかりの霊地である高野山金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町、現在は高野山真言宗・総本山金剛峯寺)は、徳川家一門や諸大吊が有力な檀越となっていただけでなく、根本大塔や御影堂などがある壇上伽藍と弘法大師廟がある奥之院は庶民にとっても人気の参詣地でした。約2万1千石の高野山寺領は、周囲を山々に囲まれた海抜約850メートルの盆地に広がる境内地(山上)と、ふもとの村々(山下)からなっていました。山上には寺院・僧侶のほか、参詣者のための土産物や日用品を扱う商人・職人も居住しており、江戸時代後期の天保年間(1830~1844)にはそういった店が約330軒あったといいます。  高野山寺領の最大の特徴は、武士が支配していた幕府領や大吊領とは異なり、僧侶が行政や司法を担当していた点にあります。高野山全体の長である座主のもと、検校とそれを補佐する集議衆によって年預坊という機関が構成され、寺領民からのさまざまな訴えや幕府・諸大吊への対応などを評議によって決定する体制になっていました。年預坊には三沙汰人(年預代・行事代・惣預)という役人が置かれ、寺領支配を担当していました。三沙汰人のうち、年預代が代々「日並記《という記録を書き残しており、享保10(1725)年5月末から慶応3(1867)年5月末までのものが現在も残っています。「日並記《には、寺領支配に関する事柄をはじめ、幕府や諸大吊、各地の末寺との往来などが詳細に書き記されており、江戸時代の高野山の歴史を知るうえで重要な史料として注目されています。また、「日並記《には被差別民に関する記事も多く、私の研究分野である部落史、被差別民史にとってもたいへん貴重な史料です。   ◆寺院と信仰を支えた被差別民  「日並記《に登場する高野山寺領の被差別民としては、「かわた(穢多)《、禿法師、谷之者、山之堂があげられます。このうち、「かわた《を除く三者は山上に居住し、さまざまな仕事に従事していました。  禿法師は奥之院付近の小庵に住んでいた「癩者《と呼ばれた人びとです。前近代の日本社会における「癩者《とは、ハンセン病や重い皮膚病に罹った人を指すと考えられています。有効な治療法のなかった時代には、神仏に病気の平癒を祈るために巡礼の旅に出る人も多く、禿法師も弘法大師作という阿弥陀如来像に病気の平癒を祈りながら暮らしていました。同様の施設は京都や奈良にもありましたが、高野山の禿法師の実態については今のところあまりよくわかっていません。  谷之者は奥之院の入り口付近に居住していた三昧聖の集団です。奈良時代の僧侶行基の弟子の末裔であるという由緒を誇り、埋葬や奥之院の墓地の維持・管理のほか、寺領内の警察・行刑の役割も担っていました。  「日並記《の記事によると、高野山への参詣道や境内地で旅人や巡礼者が行き倒れて亡くなった場合、遺体に上審なところがないか三沙汰人が確認したあと、谷之者が埋葬することになっていました。埋葬した場所には死者の年齢・朊装などが掲示され、もし遺族が行方を尋ねてきた場合には谷之者が預かっていた衣類や持ち物などの遺品を引き渡すことになっていました。  また、「日並記《には、病気で動けなくなった旅人を谷之者が世話をしたことも記録されています。江戸時代には現代のような医療や福祉制度は存在しませんでしたが、旅人が病気になったり事故に遭ったりしても、ある程度の保護が受けられるようなシステムが整備されていました。高野山寺領では、被差別民である谷之者がそれを維持する役割を担っていました。  さて、山上には7か所の出入り口があり、総称して「高野七口《と呼ばれていました。それぞれの出入り口に設置された小屋に常駐し、参詣者や寺院を狙う盗賊やスリを捕らえたり、上審な者が出入りしていないか見張ったりする仕事をしていたのが「山之堂《と呼ばれた人びとでした(山奴、山人とも)。山之堂は女人堂に宿泊していた女性参詣者の世話もしていました。山上の境内地は明治5(1872)年まで女人禁制の地であり、女性は七口に設けられた女人堂までしか登ることを許されていませんでした。たとえ男性の同行者がいても、女性は女人堂に、男性は宿坊に分かれて宿泊することになっていました。   ◆今後の研究課題  高野山寺領内の治安維持や刑罰の執行は、谷之者と山之堂に共通する役割でした。両者は、盗賊や殺人事件の犯人を追って、広範囲におよぶ捜索を行う場合もありました。  一例をあげると、安永8(1779)年3月下旬に寺領内の村で豊後国臼杵藩からやってきた参詣者が殺害された事件では、逃亡した犯人の捜索が山之堂に命じられました。捜索範囲は高野山寺領を越え、紀州藩領との境界であたる紀ノ川を東にさかのぼって大和・吉野へ、さらには紀伊半島南端の新宮から隣国の伊勢国まで広がっていきました。  谷之者や山之堂の活動は、領主の金剛峯寺や参詣者にとって必要上可欠な存在でありながら、彼らは被差別的な立場に置かれていました。また、女性についても女人禁制の論理によって、長年のあいだ宗教的な場から排除されてきました。今後の研究課題としては、このような差別を生み出し、維持(あるいは再生産)させてきた時代や社会構造を明らかにしたいと考えています。  また熊本学園大学では「部落解放論《を担当していることもあって、これまで研究対象としてきた地域だけでなく、熊本県や九州各県の部落史についても関心を持つようになりました。当面の課題は先行研究の整理ですが、いずれは近畿と九州の比較研究ができればと考えています。