5ページ 〈一冊の本〉 ガリレオの生涯 ベルトルト・ブレヒト著、谷川道子訳 光文社古典新訳文庫 2013年 本研究所研究員 小泉 尚樹 (哲学)  教皇庁のガリレオに対する審問が厳しくなって、キリスト教会から異端者として断罪されれば、ちょうどその時代の幕開けに公開されたジョルダノ・ブルーノの処刑と同様、ローマの街角で火あぶりにさえなりかねないという状況のもとで−本書では教皇の科白に「一番極端な場合でも、拷問機械を見せる、というくらいなら」(204頁)とはあるが−、ガリレオは自説の「地動説」を撤回した。  この事件の結末はまたたく間に全ヨーロッパに伝わった。反響としては旧教国フランスで「地動説」をふまえた新著の出版を計画していた哲学者のデカルトが急遽その出版をとりやめた。また後の時代にこの裁判を調査した歴史家たちによれば、そもそも宗教裁判なるものは検察がその後にただちに裁判官となるような不当なものであるうえ、ガリレオの判決にいたる理由がまことに不合理なものであった。実際のところガリレオは、教会の許可に従い『天文学対話』を出版し、学問として以上に「地動説」を取り上げもしなかったのに、「地動説」が異端であるというキャンペーンのための見せしめとして利用され、終身禁固の罰をもって報いられたのである。当代随一の自然科学者であり熱心なカトリック信者でもあったガリレオの胸のうちはいったい、どのようなものだったのだろうか。またかれの政治的権力への対応は自然科学の将来に何か影響を残したのだろうか。  本書ブレヒトの戯曲は、ガリレオの伝記や歴史書、解説などとは異なる臨場感を醸しだす。『ガリレオの生涯』第13景はローマの異端審問会議の結果を待つ弟子たちと、父を心配する愛娘の様子を描く。弟子たちは夕刻5時に布告される決定を待ちながら「先生が撤回なさるはずがない」「人間は死をも恐れない」「今こそ本当に知識の時代がはじまるのだ」などと語り合いながら、ガリレオが準備を始めていた「『新科学対話』ももう書き上げられることもない」と案じる。ついに教会の鐘が鳴り響き、ガリレオが自説撤回したことが告げられる。弟子たちは「朝が突然、夜になったような気分」に包まれ、一人が「英雄のいない国は不幸だ」と叫ぶ。審問所から連れ戻されてきていたガリレオは「違うぞ。英雄を必要とする国が不幸なのだよ」と応答した。弟子たちは政治権力に科学が敗北したと思ったであろう。  しかしその数年後、フィレンツェ近郊のガリレオの別荘を訪ねた弟子は、ガリレオから完成した『新科学対話』の出版を託される(第14景)。そのさい弟子は、先生は敗北者ではない、「政治的いざこざから身を引いて」科学に立派に貢献された、かつて自分はそれに気づかなかったと語った。これに対してガリレオは、「科学の唯一の目的は、人間の生存の辛さを軽くすることにある、……科学者が利己的な権力者に脅かされて、知識のための知識を積み重ねるのに満足するようになったら、科学は不完全になり、君たちの作る機械だって、あらたな災厄にしかならない」(239頁)と、いわば自責と自然科学の敗北を語る。ブレヒト曰く、この敗北によって科学はヒロシマ、ナガサキへと到る道を歩んできてしまったのである。