P02~05 ミュンヘンで過ごした一年間 本研究所研究員 松本 勝明 (社会保障法)  私は、2024年4月から2025年3月までの1年間、ドイツのミュンヘンに所在するマックス・プランク社会法・社会政策研究所に滞在して研究を行いました。 本稿では、その様子について報告したいと思います。 1.マックス・プランク研究所  最初に、この研究所の概要について説明します。 マックス・プランク社会法・社会政策研究所は、マックス・プランク学術振興協会がドイツ国内外に設置する計84箇所の研究所の一つです。マックス・プランク学術振興協会は、1911年に当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の命を受けて設立された「皇帝ヴィルヘルム協会」を引き継いで、第二次世界大戦後の1948年にドイツにおける学術研究の再建と発展のために設立された中立的かつ公益的な研究組織です。その際、「皇帝ヴィルヘルム」の名称を用いることが占領軍に認められなかったため、協会の会長を務めた経験のある物理学者マックス・プランクを記念して同協会並びにその研究所は彼の名前を冠することになりました。マックス・プランクは量子論の創始者で1918年にノーベル物理学賞を受賞しています。  マックス・プランク協会は、これまでに31名のノーベル賞受賞者を輩出しています。このことは、その研究水準がいかに高いものであるかを如実に示しています。 同協会による研究は大学における研究を補完し ドイツにおける学術研究全体の推進に寄与する極めて重要な役割を担っています。同協会は主に自然科学の研究を推進していますが、社会科学の分野でもいくつかの研究所が設置されています。  私が今回の研究を行ったマックス・プランク社会法・社会政策研究所はその一つです。 同研究所は、社会保障分野の法および政策に関して多くのすぐれた研究成果を上げています。また、同研究所は、社会保障分野の国際法並びにEU法の研究にも積極的に取り組んでいます。同研究所の所長は社会法の著名な研究者であるウルリッヒ・ベッカー教授です。私は1995年以来、同研究所との協力関係のもとで、日本とドイツの社会保障に関する比較研究に取り組んできました。2004年には、研究プロジェクト「社会・経済の変化への社会保険システムの適応―日独比較法」を実施するため1年半にわたり同研究所に滞在して研究を行いました。その成果は、同研究所の叢書としてドイツで公刊されました。 2.バイエルンの都、ミュンヘン  ミュンヘンは、ドイツ南東部に広がるバイエルン州の州都で、ベルリン、ハンブルクに次ぎ、ドイツで3番目に大きな都市です。しかし、市の中心部には高層の建物などはなく、自然との調和が保たれた落ち着いた雰囲気が感じられます。ミュンヘンにはヴィッテルスバッハ家の居城が置かれ、華麗な宮廷文化が花開きました。特に、ギリシャ・ローマの古典芸術を愛したバイエルン国王ルードヴィッヒ1世はいくつもの博物館や大学などを創立し、ミュンヘンを「イザール河畔のアテネ」と称される美しい街に作り上げました。私はミュンヘン大学に隣接する外国人研究者向けの滞在施設に住んでいました。勤務先であるマックス・プランク社会法・社会政策研究所はそこから徒歩で15分ほどの旧市街にある宮殿(レジデンツ)の隣にあります。ミュンヘン大学からレジデンツに至る通りは、王の名前を取って「ルードヴィッヒ通り」と呼ばれています。この通りの両側には、ネオ・ルネッサンス様式の壮麗な建物が立ち並び、まるで絵画を見るような景観が広がっています。通勤時や昼休みには、レジデンツの庭園で四季折々の花や木々の緑を楽しむこともできました。 3.研究のテーマ  今回の研究テーマは「欧州統合と社会保障」でした。このテーマを取り上げた理由は次のようなものです。私はこれまで、日本とドイツの社会保障の比較研究に取り組んできました。 日本とドイツは社会保険を中心とする類似の社会保障制度を有しており、しかも、人口の高齢化、労働環境の変化、家族構造の変化などの社会や経済の変化がもたらす共通の課題に直面しています。このような課題に対応するための社会保障改革には両国の間で多くの共通点が見られます。それと同時に重要な相違点も存在しています。このことから、両国の間で比較研究を行うことにより、今後の改革方策の選択肢を拡大することや、その効果を高めることにつながる成果が得られるのではないかと考え、このような研究を進めてきました。その中で、以前から気にかかることがありました。それはドイツがEUの加盟国であるということです。  社会保障はそれぞれの国において、基本的には、国民を対象とした国内制度として創設され発展を遂げてきました。その結果、今日において、社会保障に関する各国の制度はEU加盟国の場合であっても多様なものとなっています。このため「EUには加盟国の数だけ異なる福祉国家が存在する」と言われることがあります。一方、ヨーロッパでは、EU を中心として欧州統合のための取り組みが進められています。EUの前身である欧州経済共同体が1957年に設立された際には、加盟国の経済的な利益が中心的な関心事になっていました。 しかし、現在のEUにおいては、社会保障を推進することがその重要な目的の一つとなっています。このため、私のなかでは「EUによる影響を抜きにして、本当の意味でドイツの社会保障について論じることができるのか」という疑問が大きくなってきました。また、ベッカー所長をはじめとする多くの研究者が、各国の社会保障だけでなく、EUにも大きな関心を寄せている状況をみると、そのような思いが一層強くなりました。  そこで私自身もEUの法および政策についての研究を行うようになりました。最初に、EUのなかで移動する労働者と社会保障の関係について研究を行いました。その成果は、熊本学園大学付属社会福祉研究所の社会福祉叢書26『労働者の国際移動と社会保障 : EUの経験と日本への示唆』にまとめました。その後、研究の範囲を拡大し、「労働者の自由移動」にとどまらず、「サービスの自由移動」や「物の自由移動」、「EU市民権の導入」、自由な競争を確保するための「EU競争法」などが加盟国の社会保障に及ぼす影響について研究を進めてきました。今回の滞在では、このような研究の集大成として、EUの活動が加盟国の社会保障に及ぼす影響全般について研究成果の取りまとめを行うことが中心的な目的でした。 4.研究所での活動  今回の研究滞在においては、ベッカー所長のご厚意により、専用の研究室など、研究所の専任研究員と同様の研究環境を提供していただき、集中して研究に取り組むことができました。文献研究を中心とする今回の研究にとって特に重要な意味を持ったのは、同研究所の図書館です。この図書館はヨーロッパでも最大規模の社会保障関係の専門図書館となっています。従来から私は、すべての蔵書及び専門誌を直接手に取って見ることをお許しいただいていますが、現在は研究所の引っ越し作業中のため、蔵書などへの直接のアクセスには制約がありました。しかし、図書館スタッフの協力により研究に必要な資料を閲覧することが可能となり、閲覧できない図書については、ミュンヘン大学をはじめ、近隣の大学図書館やバイエルン州立図書館から取り寄せて利用することができました。  また、研究所内で行われる全ての研究会に参加することができ、研究所内の研究者及び外国からのゲスト研究者による様々な研究発表を聞くとともに、私自身の研究についても報告し、議論する機会をいただきました。  さらに、マックス・プランク税法・公的財政研究所と共同で月1回ほどのペースで開催されたEUの法や政策に関する講演会に参加する機会を得たことは、私にとって大変幸運なことでした。ドイツ国内外の著名な研究者やEU閣僚理事会事務総局高官による最新の情報を含む講演は、私の研究にとって大きな刺激となりました。 5.研究を通じて分かったこと  社会保障に関するEUと加盟国との関係について、日本では、次のように相反する見方があります。一つは、「社会保障についてもEUによって統一化が図られるのだ」というものです。もう一つは、「EUはあくまでも経済問題を対象にしており、社会保障とは無関係だ」というものです。しかし、この二つの見解はいずれも正しいとは言えません。  社会保障制度を構築することは基本的に加盟国の権限となっており、加盟国は社会保障に関する権限をEUに委ねることを望んでいません。したがって、将来的にも社会保障に関する中心的な責任はそれぞれの加盟国が担い続けることになると考えられます。このため、EUの役割は加盟国の支援や補完、調整にとどまり、EU市民を直接に対象とするEU社会保障制度ができることや、 EUが各加盟国の多様な社会保障制度を統一することは考えがたい状況です。  しかしながら、EUの取り組みが各加盟国の社会保障に何らの影響も及ぼさないというわけではありません。例えば、国境を越える労働者の移動についてみると、社会保障制度は国ごとに異なるため、労働者は移動することによって年金給付が受けられないなどの不利益を被る場合があります。これに対してEUは、加盟国間での社会保障制度を調整するためのルールを設け、各加盟国にその実施を求めています。これによって、労働者が国を越えて就労した場合にも社会保障上の不利益が生じないようにしています。また、EU市民は、「サービスの自由移動」を根拠とするEUのルールに基づいて、他の加盟国に行き自国の医療保険などの費用負担で医療を受けることが可能となっています。このように、加盟国が多様な社会保障制度を有することを前提としながら、EUは様々な影響を及ぼしています。  近年、難民危機やコロナ危機など、加盟国の国境を越えて拡がる危機が生じたことにより、社会保障に関するEUと加盟国との相互関係はより一層深まっています。今日、EUの影響を抜きにして、ドイツをはじめとするEU加盟国の社会保障がどのように変化していくのかを的確に捉えることはできないと思います。  今回の研究の成果については、熊本学園大学付属社会福祉研究所の研究叢書として公表する予定です。 6.謝辞  この1年間の研究滞在は私にとって大変実り多いものとなりました。このような機会がなければ、これまでのEU研究の全体をとりまとめるまでには至らなかったかもしれません。また、滞在を通じてドイツ社会の変化を実感したことが、難民危機やコロナ危機による社会保障への影響にまで私の研究関心を広げることにつながったと思います。  最後になりましたが、私を快く学外研修に送り出していただいた熊本学園大学の関係者の皆様に改めてお礼を申し上げたいと思います。また、研究所移転の時期にもかかわらず、温かく迎え入れていただいたベッカー所長をはじめ、マックス・プランク社会法・社会政策研究所の皆様に、心からの感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。Vielen herzlichen Dank!