P06~07 わたしの研究72 テーマ 「現場の実践」を理論へ、「理論」を現場へ――実践と研究をつなぐソーシャルワーク教育 本研究所研究員 孫 希叔 (ソーシャルワーク・高齢者福祉)  2023年度より、歴史ある熊本学園大学に着任いたしました孫希叔(そんひすく)と申します。専門はソーシャルワーク、高齢者福祉です。私の研究活動の根源は、韓国での社会人経験、日本への留学、高齢者福祉施設での実践、その中での多くの人々との出会いという、多様な経験のなかにあります。 韓国から日本へ――理論と実践の乖離という問い  私の学問への探求は、母国韓国から始まりました。銀行員や税理士として数字を扱う実務の世界に身を置くなかで、その数字の背後には常に人間の営みや感情が存在することに気づきました。数字だけでは捉えきれない人間の本質に向き合いたいという思いから、社会人として大学に進学し、社会福祉を学ぶことを決意したのです。その過程で、講義で学ぶ理想的な理論と、実践現場が見せる厳しい現実との間に大きな隔たりがあることに気づきました。この乖離こそが、学術的な検証を通じて解決すべき研究課題であると認識したのです。  その答えを求めて、2001年に同志社大学へ留学しました。日本の社会福祉、特にその緻密で体系化された実践を深く学ぶためです。そこで、亡き恩師である岡本民夫先生と出会ったことが、「実践知を理論化し、理論を現場で検証する」という研究者としての道を歩むきっかけとなりました。 現場から見えた「質の普遍化」への問い  大学院進学後、私は研究と実践を切り離さず、現場へ飛び込みました。高齢者福祉分野において10年以上にわたり、研究員と生活相談員という二つの立場から、ケアの現場に関わり続けました。この経験が、私の研究者としての視座を決定づけることになります。  研究員として、ケアの実態調査や利用者・家族の満足度調査、事故分析、業務分析など、多角的な実証研究を行いました。当初は「ケアにかける時間(残業時間を含む)が長ければ、介護事故は減り、満足度は高まる」という仮説を立てていました。しかし分析の結果、これらの要素間に明確な相関関係は確認されませんでした。むしろ、残業が少なくても満足度が高いケースがある一方で、その逆も存在するなど、結果にはばらつきが見られました。この事実は、ケアの質が組織として担保されておらず、特定の職員の個人的な力量や頑張りに依存している実態を浮き彫りにするものでした。  この発見は、より本質的な問題を示唆していました。それは、現場のケアが、特定の優れたリーダーや熱心な職員の「属人的な頑張り」に依存しているのではないか、という問いです。言い換えれば、「ケアの標準化」がなされていないということです。これは単なる業務のマニュアル化を指すのではなく、職員間での「気づき」や「判断のプロセス」が共有されていないことを意味します。こうした現状は、一つの施設に限った話ではなく、介護保険制度下の多くの施設が直面している普遍的な課題です。本来、利用者がどこで誰から支援を受けても一定の質が保証されることこそが社会福祉の基本理念です。しかし、特定の「人」の頑張りによって質の差が生じてしまう現状は、学問的にも倫理的にも看過できない課題であると認識しました。  現場での経験から生まれた知見を理論として整理し、教育を通じて次世代に伝えていくこと。その実践が、社会福祉全体の質を向上させる道ではないかと考えるようになりました。この思いが、今の私の歩みを支えています。 支援する人を支援する仕組みの構築に向けて  こうした現場での課題意識に基づき、現在私が本格的に取り組んでいるのが、実践現場の課題に即した「支援者支援」の仕組みづくりです。周知の通り、現在の介護現場は深刻な人材不足という構造的な課題に直面しています。人員の不足は勤務ローテーションの逼迫を招き、経験の浅い職員を指導・フォローする余裕を現場から奪います。その結果、十分な支援を受けられないまま孤立した若手職員が早期に離職し、さらなる不足を招くという「負の連鎖」が生じています。  この離職の主要因として、私は職員が対人援助の現場で直面する葛藤や無力感など、「ネガティブな感情を伴う経験(Interpersonal Experiences with Negative Emotions:IENE)」に着目しました。IENEは放置すればバーンアウト(燃え尽き)の原因となり得ます。しかし一方で、適切な省察(リフレクション)の支援があれば、それは専門職としての深い洞察や、生きた実践知を獲得する絶好の成長機会へと転換可能です。  重要なのは、この転換プロセスを個人の資質や精神力に委ねるのではなく、組織的な仕組みとして構築することです。そこで私は現在、このIENEを個人の抱える問題にとどめず、チーム全体の知として共有し、専門職としての学びに昇華させる支援モデルの構築に向けた研究に取り組んでいます。支援者が職業的ウェルビーイングを保ちながら働き続けられる環境を整えることこそが、結果として持続可能で質の高いケアを利用者に提供する確かな道筋であると考えるからです。 グローバルな視点を持つ次世代の専門職育成に向けて  現在、私は研究者として現場の課題に向き合い続けると同時に、未来のソーシャルワーカーを育てることを自らの使命としています。学生指導においては、ソーシャルワーク論を主軸に据えつつ、これまでの実務経験に裏打ちされた実習指導に力を入れています。学生たちが現場での経験を単なる体験にとどめず、自らの実践を省察(ふりかえり)し、そこから深い学びを得られるよう伴走することを大切にしています。  また、私自身の多様なキャリアと背景を活かし、学生たちが様々な価値観に触れる機会を創出したいと考えています。具体的には、国境を越えた日韓合同ゼミや学生交流、現地研修等を通じて、両国の社会福祉の現状と課題を多角的に比較分析する場を提供していきます。こうした取り組みを通じて、次世代を担う学生たちとともに両国の福祉の発展に貢献できればと考えています。