P02~05 熊本地震での災害避難所と障害者支援の経験 本研究所嘱託研究員 花田 昌宣1 (社会政策) 註1:熊本学園大学名誉教授  熊本地震の際の熊本学園大学における避難所に多数の障害者を受け入れた経験について振り返ってみたい。このテーマについてはすでに報告がいくつかあり、私自身も書いてきているが、今回はそれらとは違った角度から、自分自身の経験を中心に考えてみたい。  2016年4月14日夜9時26分、震度6の地震が熊本を襲った。実はこれは1回目の地震でのちに「前震」と名付けられ、1日後の4月16日深夜1時25分に「本震」と呼ばれるもうひと回り大きな地震が襲来した。  1回目の地震で、熊本市東区の私の自宅は扉や窓枠などが外に吹っ飛んでしまい、家の中に暮らせる状況ではなくなり自家用車の中にとどまっていた。翌15日には友人たちと震源のあった熊本市に隣接する益城町を見て回り、友人も尋ねて回った。本学の教職員も暮らしておりわかる限り様子を見て回った。また、震源近くには被差別部落が所在しており、旧来からの知人を訪問した。いずれも、地震が続いている最中だったので、お見舞いというよりは、必要なものを尋ねて回るのが目的だった。4月末ぐらいまでは余震が続いていた。  地震直後には、本学避難所に、東北地震を経験していた福島県南相馬のNPOサポートピアの青田由幸さんや兵庫の被災地NGO協働センターから増島智子さん、村井雅清さん、福島大学の天野和彦さんらが訪問してくれた。また、遠いところでは札幌の自立センターライフからも支援に駆けつけてくれた。また、九州各県のソーシャルワーカーたちのグループからも支援・協力の申し出があり、人的・物的支援をいただいた。さらには本学避難所には看護職や福祉職などの専門職に従事している二部の卒業生たちも駆けつけてくれた。  私たちが発災直後から、避難者たちの了解を得て、メディアの取材を積極的に受けるようにしていたので、県内のみならず全国にも知られるようになった。  その一方、本学のグラウンドに多数の避難者(最大時700名)が集まっていることを知り、とにかく地震の続く中で不安も抱えている近隣住民たちにできて間もない6階建ての14号館校舎に入ってもらった。無傷だった建物の1、2階の教室やホールなどを開放して避難所の運営を始めた。当時、災害避難所という制度があることも何も知らない中でともあれ安全な場所を提供することに努めた。  地域住民に混じって近隣に住む障害者たちがやってきた。もう少し正確にいうと、自立生活運動をしている障害者グループが大学から10分圏内に住んでおり、精神障害者のグループホームも大学のすぐ裏にあり、これらの人たちは以前からの友人で、熊本学園大学なら大丈夫だろうと自分たちで判断して避難してきたとのことだった。また大学のすぐ裏手にある市営住宅などからも自治会長さんが入居者を引き連れてこられた。「熊本学園大学なら大丈夫」と判断して、高齢者を中心に一人でいることの不安を抱えている方々も多くきていた。熊本学園大学に障害者が避難してきていることがニュース報道されると、それを見ていた熊本市内ばかりではなく近隣都市からも障害者や独居高齢者が多数来所されるようになった。  熊本学園大学に開設された避難所は、指定避難所ではなく、避難所としての設備や備品も揃っているわけではなく、人員が配置されているわけでもなかった。そもそも災害時の指定避難所となるのは基本的には地域の小学校や中学校、市立高校の一部および一部の公民館で、大学が国公立であれ私立であれ避難所に指定されることはない。  私自身も今でこそ災害時避難所については色々な経験もし、熊本地震後種々の調査を行ったこともあって、随分わかってきたし、避難のあるべき姿や運営のあり方については論文や報告も書いてきた。熊本学園大学社会福祉学部で災害にかかる講義や演習も開設しており、また各地に呼ばれてお話しすることも少なくない。  さて2024年の能登災害ばかりでなく、九州でも福岡県朝倉や球磨川流域でのさまざまな自然災害に伴う避難所を見るにつけ、一向に改善されずに私たちの経験が活かされないことにがっかりすることも多い。さらに一般の避難所とは別に「福祉避難所」を設けて障害者はそちらに、というやり方ではうまくいかない。  熊本地震の場合には、高齢者・障害者向けの「福祉避難所」が開設されたのは、発災後3週間以上経ってからだった。さらに一般の避難所は校区内に開設されるが「福祉避難所」は、多くの場合福祉施設におかれることがあり居住地から遠い所になってしまう。  2011年の東日本大震災以降、東北地方には何度も訪問し被災者や地域のかたがたに話を聞き、また私の研究フィールドの一つである障害者運動の関係者とはディスカッションも繰り返していた。ただ、熊本地震を経験するまでは、「発災直後」に何が起き、何が必要なのかということを考える視点はほとんどなかった。災害関連の研究者や専門家の間でよく語られる「333」の法則というのがある。3時間、3日、3週間という単位で事態が動いていくというものだ。地震のような災害が起きて、救われる命を救うのにまず3時間(救急救命)が大事であり、医療機関に搬送するにせよ、緊急時の身体ケアをするにせよ最初の3時間が大切。ついで、その後、いのちを繋ぐのに大事なのが3日間、この3日間の過ごし方がその後の生活のあり方を左右する。ついで避難所での暮らしから、次のステップに移っていくのに3ヶ月。仮設住宅もこの頃にはでき始めているし、親戚や知人を辿って遠隔地に居を移す人も出てくる頃である。それぞれの段階で必要とされるモノやヒトさらに支援も異なっている。  私の経験でいうと、最初の3時間は身を守るのに気をつけていたし、自宅の隣人たちにも目を配っていた。隣の家にいる方が一人暮らしの高齢の女性だったので声をかけてみたが返事がない。用心深く全ての窓や扉に鍵をかけておられて様子がわからない。リビングの窓から声をかけると「助けてください」とか細い声がした。そこで、縁側に通じる扉を壊して中に入ってみると、その女性は倒れてきた棚の間に奇跡的に座っておられた。怪我はないようだったがとりあえず大事をとって近くにある日赤病院にお連れした。災害時に緊急対応するのが日赤だということぐらいはなんとなく頭に入っていたからだ。とりあえず日赤病院に入院してもらい、私の方は帰宅して自宅の点検、応急片付けなどをした。  自宅はというと、テレビや冷蔵庫などは数メートル吹っ飛んでいるし、書架は倒れ書物が散乱している、窓やサッシが吹っ飛んでいて雨風に晒され、野良猫も入り込んでくる状態。築50年ぐらいの中古住宅だったこともあり、土台から壊れていて、かろうじて、増築した4畳半の部屋が雨露を凌いで暮らせる状態だった。最初の数日間は、電気ガス水道が止まっていたが、徐々に復旧してきた。  その後、行政による応急危険度判定の調査がきた。数分見ただけで「一部損壊」と言い残して帰っていかれたので、その場では承服し難いと伝えて、のちに区役所に赴いた。住宅の基礎・土台が壊れていて、写真も撮影し、説明資料も作成しておいた。私の方の言い分は罹災証明判定への異議申し立てではなかった。罹災状況調査が杜撰であったため判定結果への異議ではなく調査をやり直すべきというものであった。応急危険度判定がいわゆる行政処分に当たるかどうかもわからず、異議申し立ての制度や手続きも不明確であるので、「判定結果を受け入れない」ということにさせてもらった。  いろいろとやり取りをした結果、再度調査が来て、担当者は岩手県から派遣されてきており被災状況に関わる専門家みたいな方だったが、その場で「全壊」との判定を申し渡された。(ご近所さんも私のやりとりを聞いていたみたいでほとんどの家で判定の見直しがなされたとは後で聞かされた。)  ただ、私自身は、大学に開設した避難所運営、震源のある益城町の調査や支援、被災障害者支援などに忙しくしており、自分の家のことに関わっていることがほぼなかった。いずれにしても自宅が暮らせる状況にはないので「仮設住宅」に入ることとなった。といっても熊本市内には「仮設住宅」はなく、民間アパートを「みなし仮設住宅」として行政が借り上げて被災者に無償で提供するという仕組みがあった。私もそれを活用することとした。ただし、忙しさにかまけて自分のことが後回しになっていたので、私が入居したのは勤務先からかなり離れた築50年ぐらいの木造二階建てのアパートだった。(関西でいうところの文化住宅みたいなアパート)。行政や支援組織(在宅介護支援センター)の人たちからは、2LDKの高層マンションの提案もあったが、何せ荷物が多いので、その荷物が全部入る古い木造アパートを借りることとした。この家には長居する気はなかったのだが、自宅の再建に手間取り、ここに2年ほど暮らすこととなった。  私の場合は、勤務がまだあり収入が見込まれていること、職業が大学勤めで社会的信頼のある仕事らしく、住宅再建のローンも組みやすく、自宅を建て直すことにした。とはいえ、前の家を購入した時に組んだローンがまだ残っていたので典型的な二重ローン状態。退職金を前の住宅購入ローンの返済に充てかなり返済したが、それでも2千万円近いローンが残っている。(どうやって返すのか考えると計算できなくなるので考えないことにしている)。おそらく被災者の多くが二重ローンを抱えていて、2世代ローン状態になっていることと思う。  さて、それから10年余り。熊本では熊本地震の実感のない若者が成人を迎えようとしている。大学の授業で地震の経験を尋ねると、地震があったことは憶えているが何をしていたかよく覚えていないという学生が多い。こうした学生たちには、熊本地震の折には「君たちの先輩たちは、誰に言われるともなく、大学や近隣の公民館の避難所支援に来たり、断水した高層マンションの住民のための水汲みをしたり、できることをしていた」と伝えるようにしている。日頃の授業では机に突っ伏して寝ていたりしていた学生が地震の折には先頭に立って水汲みや片付けなどの被災者支援に走り回っているのを目にしているので、災害支援のあり方の授業をしているにつけても、若者たちはいざとなったら自発的に動くという確信を私は持っている。 (参考:「平成28年熊本地震 大学避難所45日 障がい者を受け入れた熊本学園大学震災避難所運営の記録」熊本日日新聞社刊、Amazonなどで入手可能。)