このデータベースは平成21年度および平成23年度に独立行政法人日本学術振興会科学研究費補助金(研究成果公開促進費)を受けて作成したものです。 |
|
TOPページ
新日本窒素労働組合旧蔵資料TOP
映像で見る歴史
文献目録
写真目録
物品目録
更新情報
このデーターベースについて 利用の手引 凡例 団体名の略称一覧 主題分類表 解題 |
|
解 題 |
1.新日本窒素労働組合の歴史 | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1)チッソの操業と組合の結成 |
||||||||||||
チッソ株式会社は、1906年(明治39)に鹿児島県伊佐郡大口村に㈱曾木電気として創立され、1908年に日本カーバイト商会を合併して㈱日本窒素肥料と社名変更、石灰窒素製造のための水俣工場を建設し本格的に操業を始めた。当初は化学肥料の製造を中心としたが、次第に多種の化学製品の製造に乗り出し、1927年(昭和2)に朝鮮の咸鏡南道興南に㈱朝鮮窒素肥料を設立して、東洋一の化学工業会社として発展した。しかし、敗戦によって海外資産を失うとともに、国内の事業所も財閥解体によって分離され水俣工場を残すのみとなった。 1946年(昭和21)1月26日に日本窒素水俣工場労働組合が結成された。戦後の混乱と社会運動の高揚期に、当時の管理職や熟練労働者たちを中心に組織された組合は、レッドパージへの対応をめぐって一時分裂状態となるが、組織再編を経て1951年(昭和26)に合化労連に加盟し、新日窒水俣労組(前年に日本窒素肥料株式会社は企業再建整備法により解散、新日本窒素肥料株式会社として再設立されていた)として再出発する。 |
||||||||||||
2)身分制撤廃争議 |
||||||||||||
組合の最初の本格的争議は1953年の身分制撤廃争議で、工員・社員という戦前からつづく差別は、工員は日給、社員は月給ということに留まらず、休日から社宅までのあらゆる労働条件にわたっていた。不十分ながらも、全従業員を社員とするという成果を勝ち取ったのがこの争議であった。 ㈱新日窒は、無機(肥料系)・有機(アセチレン系)の総合化学工場として発展を遂げ、日本有数の化学工場となったが、1950年代半ばから始まった石炭から石油へのエネルギー革命この環境を大きく変えていった。1961年千葉県五井の丸善コンビナートに参加、㈱チッソ石油化学を設立、150億円をかけ五井工場の建設に着手した。水俣工場と五井工場の製品は競合したため、会社は必然的に水俣工場の大幅縮小と人員整理を迫られていった。 |
||||||||||||
3)安賃闘争と組合の分裂 |
||||||||||||
一方、1956年(昭和31)に水俣病が公式発見され、1959年には㈱新日窒と漁業組合さらには患者との間で補償・見舞金契約が結ばれるという、あらたな事態が発生していた。 これらの困難を解決するために、会社側がとった行動はきわめて戦闘的なものであった。1962年(昭和37)の春闘回答で、同一業種並みの賃金を保証する代わりに組合は争議を行なわないという「安定賃金」を提案したのである。組合はこれに対して長期にわたる闘争を決行、合化労連をはじめ全国的な支援体制を得て、戦後労働運動のなかでも特筆される大規模な争議を経験することになる。 争議のなかで第二組合がつくられ、組合は分裂を蒙った。また、争議の解決においても会社側の主張を大幅にのまされる結果となった。しかし争議直後、新日窒労組は多数派であり強固な組織を維持していた。この間の動きは会社にとっては組合つぶしが主なねらいであった。このため争議後、賃金差別・不当配転をはじめとするおよそ非人道的な組合切り崩しがおこなわれることになった。組合は長期抵抗路線をとり、会社との十年戦争となったが、闘争によって鍛えられた組合員はこれをよく持ちこたえ、会社の切り崩し策は失敗することになった。 1968年になって会社は、水俣工場の主要生産ラインの操業停止と半数以上の人員削減計画を、1970年には水俣工場の最終処理案を打ち出した。チッソの水俣撤退案であった。組合は会社の送電線の地主である農民会に協力をえて、この計画に反対、従業員の雇用を守ることに成功した。 |
||||||||||||
4)水俣病の患者支援 |
||||||||||||
一方、水俣病については漁民の工場乱入のさいに、組合員は逃げまどったという経験もあり、組合は当初距離をとっていた。その後も、会社と闘うことに必死で、水俣病患者のことは組合の念頭になかった。1968年1月、水俣病市民会議が結成されたとき、組合員の中で最良の人たちが市民会議に参加していった。そしてこの年の8月30日の定期大会で、公害発生企業の労働者として「何もしなかったことを恥とし、水俣病と闘う」という有名な「恥宣言」を採択し、水俣病患者支援を打ち出した。特に患者・家族が起こした水俣病訴訟においては、組合員が訴訟活動の中心となり、また法廷での組合員の証言によって、人間性無視のチッソの企業体質、安全性無視の工場運転実態などが明らかとなり、裁判勝利の大きな原動力となった。これら一連の動きは、公害の原因企業の労働組合の活動として、きわめて希有な活動であった。 安賃争議以降、会社は従業員の新規採用に際して、第二組合系の人しか採用しないという方針をとったため、組合員の新規加盟はなくなり、退職者数の増加とともに組合員数が減少していった。そして、2004年(平成16)3月解散大会を開催し、翌2005年3月30日、最後の組合員2名の退職をもって、その58年の歴史に幕を閉じた。 |
||||||||||||
2.組合資料解説 |
||||||||||||
1)組合資料の特色 |
||||||||||||
新日本窒素労働組合(新日窒労組)は、会社から組合事務所を借り受けていたが、組合解散とともに、事務所を会社に返還した。この組合事務所に、保管されていたのが本資料である。この労働組合は60年近い歴史を持っているが、資料は組合結成時の一時期をのぞいて分散することなく残っていた。さらに、解散直前まで団体交渉をはじめ組合活動は続いていたという点で、生きた組合資料という意味を持っている。 新日窒労組の活動に関する資料は、組合が結成された1946年(昭和21)のものはさすがに無いが、その翌年からの「係代表者会議」および「総会議事録」をはじめ、基本的資料はほとんど切れ目無く残っている。議事録は初期から孔版印刷あるいはタイプ印刷で作成されていて、複数部数作成されていたことが分る。また、記載内容も議事録としての一般的な基準に則って整理され、議長印も押印されるなど形式的に整ったものである。 会議録に示されているように、この組合は初期からきわめて組織だった形で資料を残していた。例えば他地区の組合等にオルグあるいは激励などに出かけた際にも報告書がそのつど提出されており、その中にオルグ先の組合の機関紙やビラなどが綴りこまれている。つまり、この資料は新日窒労組の資料だけでなく、他の単産そして上部団体である合化労連や総評などの資料としてもきわめて貴重なものをふくんでいる。 |
||||||||||||
2)組合資料の内容 |
||||||||||||
さらに残存資料の様子から類推して、この組合は日々の活動で作成したファイルを整理し、再編綴の作業を定期的におこなっていた模様である。さらに、基本的な書類、登記関係の書類や会社との協定書などは、それぞれの種類ごとに編綴して、金庫に仕舞われていた。このような取り組みの積み重ねがあって、このようなほぼ完全な形での資料の保存が可能になったものと思われる。
また、執行委員長等の役職者のなかには、詳細に記録をつける習慣の人が多かったようで、会社との交渉内容を詳細に記した手帳ないしはA6サイズのノートが数多く残されている。ただ、あくまでメモ書きなので内容解読は他の資料と丹念に突き合せる作業が必要とされるが、組合活動のありのままの姿を知るうえできわめて貴重な資料といえる。 組合と水俣病患者との関係からすれば当然のことであるが、組合資料には水俣病関係の種々の資料がふくまれている。最初の熊本県の調査書からはじまって会社と患者との協定書、ビラや市民会議の会員名簿など重要な資料群といえる。また、組合員を対象に組合が実施した健康調査など、これまで全く知られてこなかった資料もある。さらに、チッソ水俣工場をはじめ関連工場などで稼働していた機械設備の設計図や仕様書など、技術関係の資料を多くふくんでいることも特色のひとつである。 組合資料は以上述べた文献資料だけではなく、5万コマ越える写真資料や組合活動で使われた計算機やゼッケン・鉢巻などの物品資料をふくんでいる。写真資料は安賃争議時のものが中心で、拠点ごとに設けられた写真班が撮影したものを中心としている。安賃争議は地域ぐるみの闘争として繰り広げられ地域ごとに拠点が設けられていた。 |
||||||||||||
3)組合資料の移管と整理 |
||||||||||||
組合解散が日程にあがってきた頃から、資料の保存の動きがはじまり、図書館や関係機関に打診をしたものの、引き受け手はなかなか見つからなかった。一方、熊本学園大学では水俣学を原田正純らが中心になって推進し、2005年4月には水俣学研究センターを設立し、さらに水俣市内に現地研究拠点の設置を計画していた。この両者の動きがひとつとなり、2004年6月水俣学研究プロジェクト事務局長花田昌宣名で、「研究実施のための研究設備・研究環境の整備のための協力依頼」と題する文書を組合に提出、これが受け入れられ、移管に向けて組合資料の整理が組合事務で始められた。 2005年8月に水俣学現地研究センターが設立されると、組合資料は同センターに移されたが、文献資料・写真資料・物品資料をあわせて、みかん移送用コンテナ300箱を超えた。この作業には、組合員、元組合員たち約10名が当たった。その際、一紙、一物たりとも廃棄しないこと、すべて保存・移転の対象となることを原則として実施された。 この後、本格的な整理作業がはじめられたが、全体的な整理方針を研究センータが定めた上で、実際の整理には元組合員の有志があたった。整理作業を元組合員をお願いしたのは、従業員としての経験、組合活動・組合資料に精通しているとともに、組合資料の重要さを知り、また資料に愛着を持っておられるからであった。 現在、資料は水俣学現地研究センター1階の電動書架に架蔵され、一部貴重文書や個人情報を含む利用制限の必要な文書は2階文書庫に配置されている。また、現物資料は倉庫に保管されている。さらに、写真資料の整理は現在もつづけられている。 |
||||||||||||
|
||||||||||||
|
|
|
熊本学園大学 水俣学研究センター 〒862-8680 熊本県熊本市中央区大江2-5-1 TEL/FAX 096-364-8913 © The Open Research Center for Minamata Studies. All Right Reserved. |