水俣の歴史年表

この年表は、水俣病を中心に水俣地域のあゆみを見るために作成しました。あつかった範囲は明治から現在までで、それぞれの項目には出典を明記しています。

典拠文献の略称一覧

あゆみ年表
創ったそして闘いぬいた 新日本窒素労働組合59年のあゆみ 新日本窒素労働 組合写真集編集委員会 2006年1月
区画便覧
白川県下区画便覧(熊本県史料集成 3 熊本女子大学郷土文化研究所 1985年4月)
熊 日
熊本日日新聞 熊本日日新聞社
市 史
新水俣市史 水俣市 1991年10月
小 史
水俣病小史 高峰武 水俣病ブックレット6 熊本日日新聞社 2008年3月
大 観
日本窒素肥料事業大観 日本窒素肥料株式会社 1937年7月
水俣病年表
水俣病年表(水俣病 20年の研究と今日の課題 有馬澄雄 青林社 1979年1月)
1967昭和42 6.-- 新潟水俣病(1965年5月31日公式確認)患者ら、新潟地裁に昭和電工への慰謝料請求を提訴する。市史下832
1967昭和42 8.-- チッソ、1968〜1972年に1,500名の人員削減を内容とする、水俣工場五カ年計画を発表する。あゆみ年表
1967昭和42 12.-- チッソの納入税額が市税に占める比率が22%に低下、60年は48.5%であった。市史下865
1968昭和43 1.10 水俣市、工場誘致委員会を設置。新日窒の合理化で人口流出が進んだため。翌年、山口製作所(塩化ビニール)、白石工業(石灰製造)が進出。市史上706
1968昭和43 1.12 水俣市教育会館に36人が集まり水俣病対策市民会議結成(代表:日吉フミコ)、後に水俣病市民会議と改称。市史下805 小史33
1968昭和43 4.1 水俣市、第四次町界町名変更実施(第一次1965年4月1日)で町界町名変更を完了。従来の115町を67町とする。市史上707
1968昭和43 5.18 チッソ水俣工場、アセチレン法アセトアルデヒド製造を停止。市史下865
1968昭和43 8.30 新日窒労組第31回定期大会で、水俣病問題で「何もしてこなかったを恥とし、水俣病と闘う」という大会決議を採択する(恥宣言)。あゆみ年表
1968昭和43 9.26 政府、「熊本水俣病は新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内で生産されたメチル水銀化合物が原因」と断定、公害病と認定した。市史上711,下832
1968昭和43 12.15 「水俣をよくする会」発足。1)水俣病患者及び家族を支援、2)公害をなくする運動と被害者対策をすすめる、3)市発展のため水俣工場の人減らし反対。あゆみ年表
1969昭和44 4.5 厚生省「水俣病補償処理委員会」の設置にあたり「結論には異議なく従う」との確認書の提出を求め、この日、患者は一任派とチッソとの直接交渉派に分裂。市史下832
1969昭和44 4.20 患者がチッソに損害賠償訴訟を起こす動きをうけて「水俣病を告発する会」(代表本田啓吉)が熊本市で結成され、以後全国に組織がひろがる。小史38 水俣病年表
1969昭和44 6.14 チッソとの直接交渉を求めた患者・家族28世帯112人、チッソを相手取り6億4千万円(最終15億8,800万円)の慰謝料請求を熊本地裁に提訴(1次訴訟)。市史下835
1969昭和44 8.8 チッソ、水俣工場縮小計画で688名削減を発表。11月16日新日窒労組員73名に自宅待機命令、24時間ストで抗議。1970年12月22日全員職場復帰となる。あゆみ年表
1969昭和44 12.15 「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が公布され、これに基づき公害被害者認定審査会が設置される。市史下833
1970昭和45 5.27 一任派、一時金死亡者170〜400万円、生存者80〜220万円、年金17〜38万円の補償でチッソと調印。企業責任にはふれない内容。市史下836
1970昭和45 7.23 チッソ、水俣工場存続のため従業員1580名を930名に削減と発表。この年から翌年にかけて、多くの従業員が五井・野田・守山・水島等に転勤を命じられる。あゆみ年表
1970昭和45 8.17 公害被害者認定審査会に認定申請を棄却された9人(熊本7、鹿児島2)、厚相に行政不服審査請求、71年8月7日環境庁長官(7月1日発足)棄却処分取り消し。市史下833
1970昭和45 11.-- 水俣をよくする会、チッソ水俣工場縮小反対署名19,084名を集める。12月新日窒労組、水俣工場縮小・首切り反対のスト権確立。あゆみ年表
1971昭和46 3.-- チッソ、新規事業会社への配転計画を発表、新栄合板190、ポリパック30、セントラル22、新興製機17の合259人(新日窒労組152、新労組107)。あゆみ年表
1971昭和46 7.1 環境庁が発足、8月7日環境庁長官が熊本・鹿児島県に患者認定申請を棄却された9人の処分を取り消す裁決をおこなう。小史42
1971昭和46 10.11 環境庁長官決済で水俣病と認定された新認定患者、チッソと直接補償交渉を開始するが、話合いがつかず、工場・東京本社座り込み、交渉長期化。市史下833
1971昭和46 11.14 新認定患者に批判的な水俣公害対策協議会と市民有志、「みなまたを明るくする市民連絡会議」を結成、補償問題の早期解決、水俣病の病名変更を求める。市史下834
1971昭和46 12.6 チッソとの直接交渉を求める自主交渉派、島田社長との直接交渉を求め本社前で座り込みを開始する。以後1年有半、患者・支援者が座り込みを継続する。小史46 水俣病年表
1972昭和47 3.16 1次訴訟で、新日窒労組員5名が原告側証人として証言する。あゆみ年表
1972昭和47 4.13 新日窒労組、チッソに要求書を提出、1)チッソの非人間的体質を改める、2)首切りをしない、3)水俣病の責任をとり、患者家族に充分な補償をする。あゆみ年表
1972昭和47 6.5 スエーデンのストックホルムで開かれた「国連人間環境会議」に坂本しのぶら水俣病患者が参加し、被害の実態を訴え、水俣病を世界が知ることになる。小史48
1973昭和48 1.20 水俣病の患者・家族141人、チッソに16億8千万円の損害賠償を求めて提訴(2次訴訟)。裁判では病像論が主要な争点となる。小史49 水俣病年表
1973昭和48 3.20 1次訴訟の熊本地裁判決、企業責任を認め死者1,800万円、生存者1,800〜1,600万円、総額9億7,300万円の損害賠償を命じる。市史下835
1973昭和48 4.5 新日窒労組、退職金差別是正を含む春闘要求書を会社に提出。17日東京本社等、19日通産省・大蔵省周辺でビラまき、本社前座り込み。あゆみ年表
1973昭和48 4.27 公害等調停委員会、一部の新認定患者の申請を受け、慰謝料は1次訴訟判決と同額、年金6〜2万円、治療費・介護費・葬祭料を支給する調停を提示、調停成立。市史下836
1973昭和48 7.9 1次訴訟の原告と自主交渉派、将来の補償をチッソに求め、環境庁長官の仲介で補償協定に調印、これを機に認定申請者が急増する。市史下837 小史59
1973昭和48 9.28 水俣市、「水俣病」の病名変更の署名を集め、署名者は有権者の72%に達する。翌月市長ら環境庁長官に病名変更を陳情する。市史下867,1260
1973昭和48 10.20 新日窒労組、同組合員に対する職能・賃金・一時金差別を不当労働行為として地労委に提訴する。翌年3・4月に断続的にスト実施。あゆみ年表
1974昭和49 1.10 水銀汚染された魚を水俣湾内に閉じ込めるため、熊本県が仕切網設置作業を17日までおこなう。この後、湾内の魚を捕獲、ドラム缶に詰めて処分した。小史62 水俣病年表
1974昭和49 10.29 新日窒労組とチッソ、馬場昇の斡旋により、1)労使の信頼関係樹立、2)第一・第二組合差別はしない、3)チッソ開発配転者の退職金はチッソと同額、との協定書に調印する。あゆみ年表
1975昭和50 3.14 水俣病患者・遺族114名、チッソ幹部を殺人・障害罪で告訴、76年5月4日熊本地検、チッソの元社長・工場長を業務上過失致死で起訴、1988年有罪確定。市史下868 小史65 水俣病年表
1975昭和50 8.7 環境庁に陳情の熊本県議会公害対策特別委員会委員、「水俣病のニセ患者がたくさんいる」と発言し問題となる。後に申請者より名誉毀損訴訟が提訴される。小史64 水俣病年表
1975昭和50 9.22 新日窒労組とチッソ、1)第一・第二組合間の賃金格差は1977年4月までに是正、2)チッソ開発配転者の引取りは1977年4月より3カ年で完了、との協定書に調印する。あゆみ年表
1976昭和51 3.13 水俣病患者と労働者の切り捨てと闘う水俣大集会開催。荒畑寒村・星野芳郎が講演をおこなう。水俣年表