水俣の歴史年表

この年表は、水俣病を中心に水俣地域のあゆみを見るために作成しました。あつかった範囲は明治から現在までで、それぞれの項目には出典を明記しています。

典拠文献の略称一覧

あゆみ年表
創ったそして闘いぬいた 新日本窒素労働組合59年のあゆみ 新日本窒素労働 組合写真集編集委員会 2006年1月
区画便覧
白川県下区画便覧(熊本県史料集成 3 熊本女子大学郷土文化研究所 1985年4月)
熊 日
熊本日日新聞 熊本日日新聞社
市 史
新水俣市史 水俣市 1991年10月
小 史
水俣病小史 高峰武 水俣病ブックレット6 熊本日日新聞社 2008年3月
大 観
日本窒素肥料事業大観 日本窒素肥料株式会社 1937年7月
水俣病年表
水俣病年表(水俣病 20年の研究と今日の課題 有馬澄雄 青林社 1979年1月)
1957昭和31 1.17 水俣市漁協、新日窒に対し汚悪水の海面放流中止し、浄化装置設置し酸を中和して放流することを要求する。市史下859
1957昭和32 8.1 水俣病の患者、「水俣奇病罹災者互助会」(会長:渡辺栄蔵)を結成、のち「水俣病患者家庭互助会」と改称。市史下828
1957昭和32 8.16 熊本県、厚生省に水俣湾内魚介類の食品衛生法42条2号適用の可否を照会、9月11日厚生省、すべて魚介類が有毒化の根拠なしとして不可の回答。市史下841
1958昭和33 2.7 新日窒附属病院長細川一、開業医松本芳、市川秀夫、湯堂で脳性小児マヒ様の患者をはじめて診察(後に胎児性水俣病と判明)。市史下861
1958昭和33 9.-- 新日窒、アセトアルデヒド製造工程の排水路を水俣湾につながる百間排水路より不知火海につながる八幡プールに変更し、被害がさらに広がることになる。小史14
1959昭和34 4.-- 水俣市漁協、以前より水俣湾内の操業を自粛していたが、この日より地先1,000m以内の操業を自主規制し監視船でパトロール。市史下842
1959昭和34 7.22 熊大研究班、水俣病は魚介類の摂取によりひき起される神経系疾患で、魚介類の汚染は水銀によるものと正式発表する。市史下826
1959昭和34 7.31 水俣市鮮魚小売組合(80人余)、総会で市漁協の採取した魚介類の不買を決議、8月3日から実施する。市史下829
1959昭和34 8.5 新日窒、県議会水俣病特別委員会で、熊大の有機水銀説を批判、「いわゆる有機水銀説に対する工場の見解」を発表する。市史下826
1959昭和34 8.6 水俣市漁協、鮮魚小売組合とともに新日窒に漁業被害補償、ヘドロの完全除去、浄化装置の設置を要求する。市史下830
1959昭和34 8.17 新日窒提示の補償額が低すぎるとして、漁協の漁民が交渉会場に乱入、18日県警機動隊が実力行使し、漁民・工場側・警官に負傷者が出る。市史下830
1959昭和34 8.19 新日窒労組、漁民の闘いの支持を代議員会で決定する。29日水俣市漁協と新日窒水俣工場の漁業交渉調印。漁業補償2千万円、振興資金1,500万円、年金200万円あゆみ年表 市史下831
1959昭和34 10.17 不知火海沿岸漁民の総決起集会で、漁業補償と患者補償要求を決議、新日窒の交渉拒否におこった1,500人、工場に押し掛け投石。あゆみ年表 市史下831
1959昭和34 11.2 不知火海沿岸漁民総決起集会後、操業停止の団体交渉を拒否された漁民が工場内に乱入、出動した警官と衝突、100人が負傷、35人が検挙される。あゆみ年表 市史下831
1959昭和34 11.24 知事・県議会議長・水俣市長等で不知火海漁業紛争調停委員会を設置、12月7日調停に調印。損失補償3,500万円、立上がり資金6.500万円、浄化装置設置。市史下831
1959昭和34 11.25 水俣奇病罹災者互助会、新日窒に対し1人当り一律300万円(総額2億2,400万円)の患者補償を要求、工場正門前に座り込む。市史下826
1959昭和34 12.12 熊本県知事、罹災者互助会からの「不知火海漁業紛争調停」に患者補償を加えるようにとの陳情を受け、患者補償を加えると発表する。市史下829
1959昭和34 12.30 新日窒と罹災者互助会、見舞金契約に調印。死者30万円、生存者成人10万円、未成年3万円、葬祭料2万円。新たな補償要求の放棄を含む。市史下829
1960昭和35 10.18 熊本県衛生研究所、不知火海全域を対象に毛髪水銀量調査を開始、3年にわたり3000検体を採集分析するも、その成果は生かされなかった。小史26 水俣病年表
1961昭和36 8.9 日窒第二ビニール課重合機爆発、組合員4名死亡、9名負傷。 12月27日にも技術部旧木糖工場爆発、組合員1名死亡、5名負傷。あゆみ年表
1962昭和37 4.17 新日窒の賃上交渉で会社は、同業他社の賃金をもとに昇給する安定賃金制度を提案、労組は硬化し、闘争態勢に突入。市史上684 あゆみ年表
1962昭和37 4.-- 水俣市漁協、水俣湾内を除き漁獲禁止を解除する。市史下842
1962昭和37 5.3 新日窒労組、中労委に斡旋を申請するためにストを中止、18日より中労委の斡旋が始まるが、労使が態度を変えないため6月6日斡旋中止。市史下525
1962昭和37 5.21 争議早期解決を願いチッソの送電線鉄塔等施設の地主が「農民会」立ち上げ、12月19日農民会結成大会、わずか1カ月足らずで2,500名が参加。あゆみ年表
1962昭和37 6.14 新日窒労組に批判的な組合員、民主化研究会を結成。市史下545,下549
1962昭和37 7.20 6月8日東京組合、6月12日大阪組合は安定賃金をベースとする条件闘争に方針転換し、この日より水俣組合と決別し、会社との交渉に入る。市史下536
1962昭和37 7.24 新日窒、全面ロックアウトに突入。係長主任団・民主化研究会が中心に第二組合が結成され、「新日窒水俣工場新労働組合(新労組)」と称する。あゆみ年表 熊日7.24、7.26
1962昭和37 7.26 水俣市議会を中心に「新日窒争議対策委員会」を結成、8月4日「水俣工場争議解決促進大会」を開催、13日の集会後の行進には400人が参加。市史下558
1962昭和37 8.2 新労300人、工場正門より強行就労を試みるが日窒労組のピケに阻まれる。以後連日強行就労を試み、11日国鉄引込線より突入に成功、生産再開する。市史下555
1962昭和37 8.18 新日窒・新労の商店主「水俣市繁栄促進同盟」を結成、9月3日の第2回総決起集会には全店閉店を呼びかけ、新日窒労組は参加店の不買を呼びかける。市史下586
1962昭和37 9.21 新日窒と新労・東京労組・大阪労組、安定賃金にそった賃金協定に調印する。あゆみ年表
1962昭和37 11.29 16人が初めて胎児性水俣病または先天性水俣病と診定される。市史下864
1963昭和38 1.5 地労委、安定賃金を基礎とし、争議指導者2名の退職を含む斡旋案を提示。労組・会社がこれを受け入れ22日スト解除となる。あゆみ年表 市史下599
1963昭和38 2.1 組合員249名第1次就労、3月9日の11次まで2.368名が就労。会社側、現職復帰594名、工場内配転531名、工場外施設部配置1,243名と厳しい処分を強行。あゆみ年表
1963昭和38 2.20 熊大研究班、水俣病の原因はメチル水銀化合物と発表。市史上687,下827
1963昭和38 5.13 新日窒、第1次から3次の希望退職を募集、特に第2次は会社側の定めた基準による解雇を含むものだったため、この実施方法をめぐって日窒労組と激しく対立。あゆみ年表 市史下610
1963昭和38 9.24 新日窒労組、第1回団結運動会、69年まで開催し水俣名物となる。70年より水俣地協主催となる。あゆみ年表
1963昭和38 10.28 新日窒、人員整理分を南九開発へ配置転換すると組合に提案。11月6日組合、熊本地裁に地位保全仮処分申請。1965年1月最高裁、組合の抗告を棄却。あゆみ年表 市史下618
1964昭和39 5.-- 水俣市漁協、水俣湾内の漁獲禁止を全面解除。市史下842
1965昭和40 1.-- 新日本窒素肥料株式会社、「チッソ株式会社」に社名変更。あゆみ年表